2022年8月14日日曜日

『生きられた家』

『生きられた家』多木浩二著 初版 1976年 

田畑書店 多木さんは私が学生の頃は、すでに建築の批評を活発にされていたように思います。 そのような90年代を過ごしていたのですが、建築論ではないとご本人が言っていたにもかかわらず建築界に影響をあたえていた 『生きられた家』という本は、すでに絶版で手に入らない、現在のようにネットが普及していない時代だったので、入手困難な 本になっていました。 

その後、青土社から改定された『生きられた家』が出版され、はじめて手にとったのがいつだったか。。 さらに岩波現代文庫からもさらなる改定版が出版されました。

 版を重ねる度に、手を加えたり削ったりしながら『生きられた家』という本自体が増改築をくりかえし、まさに「人が生きる家」の ようにメンテナンスされつづけたのですが、2011年、東日本大震災の年の4月にお亡くなりになり、残された『生きられた家』のテクスト は、引き継がれ2019年に再び青土社から『新版 生きられた家』が刊行されています。

 

 私は、このテクストの副題にある「経験と象徴」という言葉についても色々と思いをめぐらせました。 

 「家にはまたわれわれを超えた力が作用している。ひとつは家の象徴性だ。それはわれわれをいきなり太古や生命の根源に結びつけようとする。しかしもう一方で、家は人間の社会性そのもののなかに成立してきたものである。われわれが自覚していようといまいと、われわれを拘束する宇宙にもなる…」初版P12

「もしも家がなかったらば、人間は錯乱した存在となるだろう。天の雷雨にも、生の雷雨にもめげず、家は人間をささえまもる。家は肉体とたましい なのである。」初版P19 

 

象徴とは、私の解釈では、今現在という体験だけではなく、人が大昔から感じているような時を超えたもの、そのもとで人が想像をはせることができ、人と人とを緩やかに繋ぐようなものなのだと考えています。

経験については、ヴァルター・ベンヤミンが『経験と貧困』というテクストを残しているのですが、家とはそのような経験を紡いでいく、継承していく器であったものが、近代になり家のありようも変わりわたしたちは、親、祖父母世代からの経験を受け継ぐという契機もなくしている時代に生きているのではないでしょうか。経験の枯渇は、現在しか視ることができず、現在はまた過去の蓄積の上になりたっていること(歴史の現在)にたいする認識をなくしてしまうのではないかと思います。


とはいえ、時代は移ろっていきます。時代の要請とともに変化するべきことも多々あるでしょう。特に地球温暖化による脱炭素社会を目指すということは喫緊の課題でもあります。断熱性能を上げる、エネルギーのかからない家をつくることは時代の要請です。

 

そのなかにあって、人がいきいきと生きられる(生きられる世界とは、現象学の用語でもあるわけですが) 家を創ることがわたしたち設計者に対して問われていることなのではないかと思うのです。

2021年2月1日月曜日

Villa Malaparteについて

 私が建築の学生だった頃、大学の授業にでては、空いている時間で映画を観にいくというような生活をしていて、建築と映画の関係性について興味を抱くようになりました。

1990年代はじめは、いわゆるミニシアターが都内にあって、暇さえあれば足を運んでいました。特にフランス映画、ヌーヴェル・ヴァーグの監督が好きでした。とりわけ、ジャン=リュック・ゴダールの映画は、レイトショーでみてました。

建築と映画という観点でみると、ゴダールの比較的初期の作品『軽蔑』は、とても建築的だと言ってよいでしょう。ミッシェル・ピコリとブリジッド・バルドーのふたりの演技も素敵です。


前半の舞台は、ローマ。最初のシーンは、映画の工場とも言われたチネチッタが登場してきます。フリッツ・ラングというドイツの映画監督(『メトロポリス』という近未来映画を撮った監督ですが、その未来像は、現在もひとつのモデルとして有効です)も登場します。

アパートといっても日本ではマンションと言ったほうがよいのかもしれませんね。その住いでは室と室に行き来するシーンが多く、カメラの視線は壁と壁の縦ラインが強調されます。

 そして後半、舞台はローマからイタリアの南にあるカプリ島にうつります。そこで登場するのが、クルッツォ・マラパルテが自らも建築に携わったといわれている『マラパルテ邸』が登場します。前半のローマとはうってかわり、カメラの視線は水平が強調されることになります。このマラパルテ邸は、まさにゴダールが発見したと言われており、当初、イタリア合理主義の建築家、アダルベルト・リベラが設計したということですが、リベラの設計案は叩き台にすぎず、マラパルテが主導し地元の大工のアドルフォ・アミトラーノと協働でつくられたと言われています。


マラパルテ邸は、マラパルテ自身が「Casa come me(私のような家)」と語ったように、流刑にあった際の牢屋のイメージのような個室があったりします。また、マラパルテのいきざま、ファシストとの親交から断絶、コミュニズム、など思想的な振れ幅を考えると、まさに超現実的(シュールレアリズム的)な感覚が、この建築に鏤められているように感じます。

 下の映像は、サンローランの2018年の春のキャンペーンにて、かつてスーパーモデルとして世間に知られたケイト・モスがマラパルテ邸を舞台に撮られています。昨今のジェンダー問題にも通じる映像は、まさにマラパルテらしいような気がしてなりません。そして、どこか、時代に左右されない価値がこの住宅に宿っているのではないかと思うのです。 

先日、マラパルテが記した『クーデターの技術』という邦訳の本を購入しました。ミャンマーで軍部がクーデターを起こしたというニュースが流れていますが、彼の思想に触れて何を感じるのか楽しみです。そこから、この住宅のヒントがあるのでしょうか。

 

結びに、ゴダールの『軽蔑』では、奇しくもフリッツ・ラングがホメロスの『オデッセイア』の映画をこのマラパルテ邸の屋上で撮るという設定です。故郷のイタケーになかなかたどり着かない、 オデッセウス。「ノスタルジー」に支配されたこの物語と故郷喪失の現代人との共通項もまた繋がっているのかもしれませんね。

今は、この『ノスタルジー』の本を読み終えようと思っています。

(スマホでこのBlogを読むとYouTubeの映像が表示されませんでしたので、二箇所、リンクを貼りましたのでご確認ください。)

 

2020年9月26日土曜日

野掛け 椿茶屋 へ

         

 

先日、静岡の藤枝市は朝比奈川の支流近くにある「野掛け椿茶屋」に久しぶりに行きました。川の堤近くのピクニックスタイルのカフェだけあって、吹く風の心地よいこと!


すこし干してからラタトゥイユにするそうです!美味しくないはずがない。


9月半ばとはいえ、暑かったので、梅ミルクのかき氷をご馳走になりました。これが絶品!オーナーご夫婦のお人柄と里山の自然に包まれていると、ほんとうに豊かなこととはこういうことだ…と心身に染み入ります。これからコスモスの季節が始まるそうですよ。営業時間をおたしかめのうえ、みなさまもぜひ行ってみてくださいね〜!           
(み)


2018年11月29日木曜日

家びらきライブ VOL.1

10月28日(日)の昼下がり、谷川賢作さんのピアノと宮野裕司さんのサックスが羽鳥の住宅街に響き渡りました。会場はわたしたちの住居兼事務所の本間義章建築設計事務所。当日は、雲ひとつない晴天のもと、友人たち、ご近所さんを中心に、大人26名、子ども12名が集まってくれました。ありがとうございました。予想を上回る子どもの数に、少々驚いた様子の賢作さんでしたが、そこはさすがのご対応。皆が楽しめる曲目とお話で会場を巻き込んでいかれました。子どもたちも一流の音楽家の音色にぐっと引き込まれ、なかには聴きながらお昼寝タイムに入るお子さまも笑!贅沢な、ゆたかな時間が流れました。






4年前に静岡の羽鳥の家に戻ってから、ずっとやりたいと思っていた家びらき。こんなに贅沢なライブができたのは、静岡市出身の山本起也監督とのご縁があったから。山本監督作品のツヒノスミカ(2006年)は「ばあちゃんの家の終焉を愛おしむように見つめた、ひと夏の小さなレクイエム」的作品なのですが、その「ばあちゃんの家」が偶然にもご近所の羽鳥であったということから、いつかここで上映会を開きたいと監督に申し出ていたことをなんと監督が覚えていてくださり、今回の企画に至ったのでした。今回は上映会ではなく、ライブとなりましたが、近いうちに上映会企画もしますので、そのときはぜひ皆さんいらしてくださいね。
そうそう、その山本監督とのご縁をくださったのは、静岡大学 アートマネジメント人材育成のためのワークショップ100です。素晴らしい取り組み。いただいたものを少しずつでも地域にかえしてゆきます。


映像はそのツヒノスミカの一部。この美しい曲が家に響いたとき、家が喜んでいるような気がしました。

2018年6月6日水曜日

1年!!!

みなさん、こんにちは。
お久しぶりです。いや、お久しぶりすぎる…。
前回のブログアップから気づけば1年経っていましたよ…。
恐ろしい…。

洞慶院さんの東司(とうす=お手洗い)が完成しました。

みんなに手伝ってもらって、外壁塗ったり、内壁塗ったり。

みなさまのご協力により、晴れて完成。




ここなら住める、こんな小屋がほしい、と嬉しいお声もいただき笑。
トイレの神様 烏蒭沙摩明王が祀られているお寺にふさわしい快適なトイレが完成したと自負しております。みなさま、静岡にお越しの際はぜひお立ち寄りください。

http://www.tokeiin.jp/

2017年6月7日水曜日

祝1周年♡


本日、梅雨入りしましたね。
この季節、グラス片手に(雨の入りこまない)ウッドデッキで
愛しのオリーブ眺めながらお酒♪
最高です。

しかも、お酒は一年前に自分で仕込んだ梅酒!
ふと思い立ったら、ちょうど一年でした。
なんというか、先人の知恵を尊敬した一夜でした。
こんなに美味しくなるのですね〜。

4畳半の広さのウッドデッキ、私は重宝しております。
ウッドデッキの活用、またレポートいたします♪ (み)




2017年6月1日木曜日

ソトコト編集長に会った

こんばんは。
昨夜は、ソトコト編集長のトークイベントに参加しました。
久しぶりの夜の外出〜。

ソトコト編集長から見た静岡市。どんなふうに見えているか知りたい!と思って参加しました。まあ、そんなに簡単に「静岡市はコレですよ」という安直な答えはありませんでした。あたりまえか笑。編集長はずっと静岡市で観察しているわけではなく、ちょっと降り立ち、感じたことをお話し、過去のもしくは現在進行形のご自身の成功事例を語る、みたいな感じなわけですよね。(それはそうか。)もっと静岡と連携したかったら依頼して、という感じでしょうか。以前の職場で、コンサルタントの先生をお呼びして、その日がくれば何か解決方法が見つかるのでは!とワクワクしてその日を迎え、終えたものの、残ったのは解決されない課題であった…。自分たちで解決する以外に道はなかったのだ、的な。あぁ、まさにそんな感じでした。いやぁ、これは私の依存体質によるものですね。

その地域のよさは、その土地に住む人しかわからない。
その土地のよさを、その地に住む人が見つけ、それを内向きに発信する。
ここはこんなにいい場所だから、皆で大切に住み続けていこうと言い続けよう、と。
昨夜の学びは、①誰に伝えるべきかを間違えてはいけない、②何を伝えるべきかを間違えてはいけない(陳腐なものはアウト)、③静岡市は大きいかもしれないけど、「七間町」とか小さく考えればよいのでは、の3つ。個人的には3の気づきが大きかったかもしれない。

家康は100年後の人々も快適に過ごせる街、というのを目指して静岡のまちづくりをしたそうです。わたしたちもそうありたい。それに役立つ家をつくりたい、と思います。1件の小さなお店から街が変わることも多々あるようです。(み)