◯はじめに
私、本間は、静岡市の羽鳥にて生まれ育ちました。
しかしながら、幼稚園、小学校、中学校と市街地にある学校に通っていたので、地域の行事であるとか、地域活動というものとは縁遠かったと思います。
昭和の頃は、町内で盆踊りなどがありましたが、現在ではみかけることもなくなりました。
そのような少年時代でも、風の強い日に、家の東側に壁のように在る千代山の木々がいっせいに大きく揺れ、それとともに葉擦れの音がなる光景がいわば
原風景のように刻まれた感覚をもちつづけていました。
(↑『羽鳥の家』からみた千代山)
◯建穂寺が建穂・服織地区のはじまり?
『羽鳥の家』を設計したのが2004〜2005年にかけてです。その頃は、横浜に住んでいて
静岡は帰省するための故郷であると思っていました。
2000年ころだったか、今はなき幻のお寺と言われている建穂寺の観音堂跡からみた風景をみて建穂、羽鳥地区の成り立ちのはじまりをみたような衝撃を受けました。
この場所の力、エネルギー(いまでいうところのパワースポット的な)を感じました。
(↑建穂寺観音堂跡地から木枯の森をみる)
『羽鳥の家』は、この南北を基軸としたヴィスタをよみとり建築空間に反映させることとしました。
建穂寺は、白鳳時代に建立されたと言われ、その頃、渡来人である秦氏が服織地区に入植したとのことなので、この地域もまた千年単位で生きられた地域であると言えるのでは
ないかと思っています。千年村プロジェクトというものがありますが、この地域もひょっとしたら、千年村というにふさわしいかもしれませんね。(しっかりと調査しないとですが…)
◯先行デザインを受継いでいる建穂・服織地区、或いは歴史の現在
(上:瑞祥山建穂寺之図 下:現在のマップ)
かつての建穂寺境内の図があります。そして、その当時の建物の配置(伽藍)も観音堂跡から木枯の森を貫く軸線に沿って、配置されていることがわかると思います。
そして現在。かつての寺院の配置が基盤となって、延長するかのように建穂・服織地区の町割が構成されていることがわかります。この場所の地勢が観音堂〜木枯の森軸が現在にも生きられているのです。
もちろん、駿府城があり、城下町としての呉服町が構成されていて現在に至る例はありますが、白鳳時代、いわゆる歴史区分でいえば古代に属する古の時代からの名残がこの地域にあるということは、この場所で生きる人たちの精神的な拠り所のひとつになり得るのではないかと思っています。
今回は、このあたりで。