2010年8月19日木曜日

『芹沢銈介美術館(石水館)』と『長谷川現代美術館(カフェダダリ)』

先週末、静岡の実家に帰省した際、車を借りて相棒と『芹沢銈介美術館(石水館』と『長谷川現代美術館(カフェダダリ)』に行ってきました。
石水館をみようと思ったのは、やはり、7月の白井晟一展などに触発されたことはいうまでもありません。

《石水館》
久しぶりに訪れた、登呂遺跡は新しく博物館が建っていたりと10年前とは周辺が一変していましたが、石水館は当時のまま。
アプローチからみえる池の噴水も健在でした。
アプローチから池の噴水をみる
 外壁を石(紅雲石)で覆われてるのでさながら要塞のようで広い平屋のため全貌は、遠く離れた位置からみないとわからない。登呂遺跡という時間から解放された遺構と同じように在りたかったのだろう。白井は石水館を「花の砦」と呼んでいたそうだ。季節に応じて花が咲くように植裁にも気を使ったようだ。白井晟一が、完成を確認した最後の作品といわれる。
エントランス
 久しぶりに行ってみて、これはロマネスクの教会のイメージがあったのではないかということに新たに気づく。建築の重さ、空間の闇が光との関係で際立っていた。そのような建築の中で改めて気づくことは、展示されている芹沢銈介の意匠の軽やかさが、逆に浮きたってみえた。特に聖堂の塔のような展示室では壁一面に、芹沢が施した団扇がかざれていたのが印象的だった。
ただ、残念ながら白井の意図通りには使われていない。池に面した展示室は日光を避けるように、カーテンが閉まっている。展示室内の噴水は、水がでていず干上がっている。
展示室の湿度管理、日射で作品を傷める恐れなど理由は様々だろうが、例えば1980年と違って窓にフィルムを貼ったりすることで回避できるような工夫はできる気がする。

今回は、週末お茶をふるまって下さっていて、特別室から中庭を眺めながら一服することができたのは良い経験だった。
出口の半外部空間
 芹沢銈介美術館 http://www.seribi.jp/



《カフェダダリ》
静岡の用宗駅の先、大崩海岸を進んでいって焼津にさしかった、岬(というほどでもないけど)の端にこのカフェダダリはある。
長谷川現代美術館 カフェダダリ
  2006年に訪れたcolleenが、とても素晴らしい場所と言っていたあのカフェだ。カフェダダリは、個人のコレクションを併設した美術館兼カフェというところか。曇り空のジメジメした空気だったが、やはりここからの眺めは絶景だった。
水平線が印象にのこるカフェからの風景

相棒がいたお陰もあって、勇気をもってお店の方に話しかける。もともとは、外国人の別荘だったところに、美術家でもある旦那さまが増築に増築を重ね、現在の海との関係をつくりだしたということ。colleenの話をしたら現在は、閉鎖されいてる様々な展示空間をみせてくださった。

常々思っていたのだけど、この建築は、ジャン-リュック・ゴダールの映画『軽蔑』にでてくる、カプリ島に建つマラパルテ邸の様ですねという話を奥様にさせていただく。
はじめて訪れた時から、ずっとこのゴダール映画を思い出していた。


ご主人が鍛冶屋にお願いして作った鉄の階段も素晴らしい。写真はありませんが・笑
色々なアート作品(ウォーホール、リキテンシュタイン、ガウディデザインの把手、具体のアートなどなど)を堪能して満足した日だった。
ちなみに、ダダリが舞台となったCM(生理用品の)は、こちら。(ただし、白い室内は違うと思います)特に最後の窓からの景色。

2010年8月6日金曜日

白井晟一 原爆堂


7月30日、東京造形大にて『SIRAI,いま 白井晟一の造形』展を慌てて見学してきた。
小沢先生が展覧会をご覧になっていて、白井晟一のベルリン留学時代〜帰国のこと(林芙美子との恋愛、ソ連に滞在していたことなど)について、そして原爆堂のことについて書かれていたので、これはと思いみてみることに。
原爆堂が丸木夫妻の『原爆の図』を展示するためのものだったとは、建築を勉強していながらも知らなかったので、もう勉強するつもりで。
ちなみに、静岡市出身なので芹沢銈介美術館は原風景のようなもの。

うちから横浜線相原駅までは約1時間。
造形大の美術館は、マンズー美術館という白井の設計を実現した美術館でした。これぞインゴットのような塊の中に吸い込まれるように入っていく。排他的でもあるが、これが両義的な印象。
オリジナルの「原爆堂」のパースや図面などが展開する。模型は造形大の院生がつくったらしい。断面模型には、「原爆の図」が展示されている様子が再現されていた。
手描きのパースは淡く、しかしながら存在感がある強い表現となっている。水面に映る原爆堂は恐らく、その上に建っているであろう原爆堂を揺らいだ存在として細かく描かれている。とても不思議な絵(パース)だ。

他にも様々なスケッチや、「書」が展示されていたり装幀を手がけたりして多才な人だったんだな〜と。

そこで、実家に眠らせていた「白井晟一研究Ⅰ〜Ⅴ」http://bit.ly/daJPnJ
と「無窓」をお取り寄せして読んでみることにした。
まだパラっとしか読んでないので詳細は後日にしますが、秋田で「秋の宮村役場」の計画が実現後、秋田でも仕事が展開せず苦渋に満ちていたようだ。 役場では、雪国の辛さ、暗澹たる気持ちを解消しようと、明るく軽い建築を試みかつ機能的にも暖かさを維持できるような工夫をしていたようだ。白井昱磨さん のテキストによれば「秋の宮村役場で達成されたような、純粋で清澄な愛の悲願と情熱を、内容として表出することはその後稀である。」ほどだったのにもかか わらず。情熱と決意は忍耐と覚悟へと変わっていく。
「白井自身の思想のリアリティーに対する不信と懐疑としてあらわれるだろう…」
そのような、現実(事実)と自己の認識のジレンマに悩んでいたようだ。そのことが原爆堂をして、個別(固有)の問題性を含みながらも原理的な造型へと一層徹底的に向かわせた要因の一つだった。
また、昱磨氏によれば、丸木夫妻の「敷地も工費もそこにおさめられる美術品の数や大きささえも未知なまま」原爆堂の設計を開始したらしい。

白井はつねづね「建築家は戦争に反対しなければならない」と語っていたそうで、「戦時中は軍国主義によりそい戦後、一転して民主主義と平和ととな える日本の有名な建築家達がとった姿勢に対して、深い疑念と批判をもっていたと推測される。」「建築家としてなすべき、そしてなしうる反対がどのような形 で達成されるべきということか」を考えてたようだ。
建築はイデオロギーを超えて、人間の為につくられるべきという某コルブの態度なかなか理解し難い。

丸木夫妻からも賛意をもらい熱心な支持者の声援(支援じゃないんだ!)もあって、一応計画設計は終わったということらしい。けど、実現しない。実現は前提のつもりだったのに…。ということだ。