7月30日、東京造形大にて『SIRAI,いま 白井晟一の造形』展を慌てて見学してきた。
小沢先生が展覧会をご覧になっていて、白井晟一のベルリン留学時代〜帰国のこと(林芙美子との恋愛、ソ連に滞在していたことなど)について、そして原爆堂のことについて書かれていたので、これはと思いみてみることに。
原爆堂が丸木夫妻の『原爆の図』を展示するためのものだったとは、建築を勉強していながらも知らなかったので、もう勉強するつもりで。
ちなみに、静岡市出身なので芹沢銈介美術館は原風景のようなもの。
うちから横浜線相原駅までは約1時間。
造形大の美術館は、マンズー美術館という白井の設計を実現した美術館でした。これぞインゴットのような塊の中に吸い込まれるように入っていく。排他的でもあるが、これが両義的な印象。
オリジナルの「原爆堂」のパースや図面などが展開する。模型は造形大の院生がつくったらしい。断面模型には、「原爆の図」が展示されている様子が再現されていた。
手描きのパースは淡く、しかしながら存在感がある強い表現となっている。水面に映る原爆堂は恐らく、その上に建っているであろう原爆堂を揺らいだ存在として細かく描かれている。とても不思議な絵(パース)だ。
他にも様々なスケッチや、「書」が展示されていたり装幀を手がけたりして多才な人だったんだな〜と。
そこで、実家に眠らせていた「白井晟一研究Ⅰ〜Ⅴ」http://
と「無窓」をお取り寄せして読んでみることにした。
まだパラっとしか読んでないので詳細は後日にしますが、秋田で「秋の宮村役場」の計画が実現後、秋田でも仕事が展開せず苦渋に満ちていたようだ。 役場では、雪国の辛さ、暗澹たる気持ちを解消しようと、明るく軽い建築を試みかつ機能的にも暖かさを維持できるような工夫をしていたようだ。白井昱磨さん のテキストによれば「秋の宮村役場で達成されたような、純粋で清澄な愛の悲願と情熱を、内容として表出することはその後稀である。」ほどだったのにもかか わらず。情熱と決意は忍耐と覚悟へと変わっていく。
「白井自身の思想のリアリティーに対する不信と懐疑としてあらわれるだろう…」
そのような、現実(事実)と自己の認識のジレンマに悩んでいたようだ。そのことが原爆堂をして、個別(固有)の問題性を含みながらも原理的な造型へと一層徹底的に向かわせた要因の一つだった。
また、昱磨氏によれば、丸木夫妻の「敷地も工費もそこにおさめられる美術品の数や大きささえも未知なまま」原爆堂の設計を開始したらしい。
白井はつねづね「建築家は戦争に反対しなければならない」と語っていたそうで、「戦時中は軍国主義によりそい戦後、一転して民主主義と平和ととな える日本の有名な建築家達がとった姿勢に対して、深い疑念と批判をもっていたと推測される。」「建築家としてなすべき、そしてなしうる反対がどのような形 で達成されるべきということか」を考えてたようだ。
建築はイデオロギーを超えて、人間の為につくられるべきという某コルブの態度なかなか理解し難い。
丸木夫妻からも賛意をもらい熱心な支持者の声援(支援じゃないんだ!)もあって、一応計画設計は終わったということらしい。けど、実現しない。実現は前提のつもりだったのに…。ということだ。