2021年2月1日月曜日

Villa Malaparteについて

 私が建築の学生だった頃、大学の授業にでては、空いている時間で映画を観にいくというような生活をしていて、建築と映画の関係性について興味を抱くようになりました。

1990年代はじめは、いわゆるミニシアターが都内にあって、暇さえあれば足を運んでいました。特にフランス映画、ヌーヴェル・ヴァーグの監督が好きでした。とりわけ、ジャン=リュック・ゴダールの映画は、レイトショーでみてました。

建築と映画という観点でみると、ゴダールの比較的初期の作品『軽蔑』は、とても建築的だと言ってよいでしょう。ミッシェル・ピコリとブリジッド・バルドーのふたりの演技も素敵です。


前半の舞台は、ローマ。最初のシーンは、映画の工場とも言われたチネチッタが登場してきます。フリッツ・ラングというドイツの映画監督(『メトロポリス』という近未来映画を撮った監督ですが、その未来像は、現在もひとつのモデルとして有効です)も登場します。

アパートといっても日本ではマンションと言ったほうがよいのかもしれませんね。その住いでは室と室に行き来するシーンが多く、カメラの視線は壁と壁の縦ラインが強調されます。

 そして後半、舞台はローマからイタリアの南にあるカプリ島にうつります。そこで登場するのが、クルッツォ・マラパルテが自らも建築に携わったといわれている『マラパルテ邸』が登場します。前半のローマとはうってかわり、カメラの視線は水平が強調されることになります。このマラパルテ邸は、まさにゴダールが発見したと言われており、当初、イタリア合理主義の建築家、アダルベルト・リベラが設計したということですが、リベラの設計案は叩き台にすぎず、マラパルテが主導し地元の大工のアドルフォ・アミトラーノと協働でつくられたと言われています。


マラパルテ邸は、マラパルテ自身が「Casa come me(私のような家)」と語ったように、流刑にあった際の牢屋のイメージのような個室があったりします。また、マラパルテのいきざま、ファシストとの親交から断絶、コミュニズム、など思想的な振れ幅を考えると、まさに超現実的(シュールレアリズム的)な感覚が、この建築に鏤められているように感じます。

 下の映像は、サンローランの2018年の春のキャンペーンにて、かつてスーパーモデルとして世間に知られたケイト・モスがマラパルテ邸を舞台に撮られています。昨今のジェンダー問題にも通じる映像は、まさにマラパルテらしいような気がしてなりません。そして、どこか、時代に左右されない価値がこの住宅に宿っているのではないかと思うのです。 

先日、マラパルテが記した『クーデターの技術』という邦訳の本を購入しました。ミャンマーで軍部がクーデターを起こしたというニュースが流れていますが、彼の思想に触れて何を感じるのか楽しみです。そこから、この住宅のヒントがあるのでしょうか。

 

結びに、ゴダールの『軽蔑』では、奇しくもフリッツ・ラングがホメロスの『オデッセイア』の映画をこのマラパルテ邸の屋上で撮るという設定です。故郷のイタケーになかなかたどり着かない、 オデッセウス。「ノスタルジー」に支配されたこの物語と故郷喪失の現代人との共通項もまた繋がっているのかもしれませんね。

今は、この『ノスタルジー』の本を読み終えようと思っています。

(スマホでこのBlogを読むとYouTubeの映像が表示されませんでしたので、二箇所、リンクを貼りましたのでご確認ください。)