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2020年9月26日土曜日

野掛け 椿茶屋 へ

         

 

先日、静岡の藤枝市は朝比奈川の支流近くにある「野掛け椿茶屋」に久しぶりに行きました。川の堤近くのピクニックスタイルのカフェだけあって、吹く風の心地よいこと!


すこし干してからラタトゥイユにするそうです!美味しくないはずがない。


9月半ばとはいえ、暑かったので、梅ミルクのかき氷をご馳走になりました。これが絶品!オーナーご夫婦のお人柄と里山の自然に包まれていると、ほんとうに豊かなこととはこういうことだ…と心身に染み入ります。これからコスモスの季節が始まるそうですよ。営業時間をおたしかめのうえ、みなさまもぜひ行ってみてくださいね〜!           
(み)


2010年5月11日火曜日

バオバブの記憶〜そこに暮らしがあるということ

先日、5月3日に鎌倉の平和推進実行委員会が主催した憲法記念日のつどい「バオバブの記憶」という本橋監督の作品を観に行ってきました。
千年生き続ける、バオバブの樹によりそいながら、樹を敬いながら生活するセネガルのトゥーバトゥール村の人たちのドキュメンタリー映画です。
近年では、中国資本が入り、近代化が進み、バオバブの樹も切り倒されてしまう状況が生まれているということでしたが、 そこにはバオバブの樹に対する信仰のような(宗教的にはイスラム教らしいのですがそれを超えるというかもっと身近な存在としての信仰のような)ものがあり、ある意味では、この樹が村の人達の心の支えでもある。

本橋監督は、「そこには暮らしがある」とおっしゃっていたことがとても印象に残ったわけです。

現代の私たちの暮らしにおいては、地域という概念すら消えつつあり、住宅地の住宅は個人の資産である為か周囲とは閉じている関係をつくりだしてしまっているのが現代の日常風景といって良い。資本主義の消費の対象が家族だけでなく、個人に対して「この商品を購入せよ」というメッセージを送り続けているが故に、家の中の家族内の関係性すら危うくなっているのではないか。

では、暮らしがあるとはどういうことなのだろうか。

確かに、その村の暮らしをそのまま私たちの生活として真似る、変えるというのには無理がある気もする。
しかしながら、「そこには暮らしがある」という場合、明らかに私たちの現代はどこか、非人間的な時間を過ごし、過ごしというよりは時間が慌てて過ぎてゆくように生活しているのではないか。暮らしがあるということは、大きな時間枠(人生)でとらえた時に、日々の生活の中に詩のようなものがあり、人生を愛おしく丁寧に暮らしているということが「そこに暮らしがある」というのではないかと漠然と考えたのでした。

そして、建築もまた、そのような大きな時間の流れの中で、人間の中に詩がある生活の中で、共に在りたいと思ったのでした。

2010年4月15日木曜日

ここのところの日常

ここのところ、STUDIO 2Aの図面ヘルプに入っていて、事務所に不在にすることが多い日々です。
ちなみに、STUDIO 2Aの前の住宅作品「house I」も実施設計協力しております。(リンク先のDATAを参照下さい!)
ところで、その「house I」は昨年度の新建築賞を受賞したので、このような講演があります。私も参加予定です。

 第26回新建築賞 受賞者講演会

2010年4月6日火曜日

伊藤環さんの個展

ご近所つながりの、パン・山角さん、家具・木工のchikuniさんたちの縁で、伊藤環さんと知り合わせて頂いて、先日DMが届きました。
私たち夫婦は、環さんのつくるものが好きで、結婚した際にもお皿を購入したり何かとお世話になってきました。完璧な幾何学というよりは、すこし歪さも加わってでも、手触りや料理を盛った時にしっくりくるのです。お人柄が伝わってくるよう。

というわけで、逗子のCoya okuで開催されていた個展に夫婦で訪れました。
根元きこさんがプロデュースされているお店は、かつて店舗だった(豆腐屋さんだったのかな?と推測)お店を改装して、カフェ・ギャラリーとして運営されているようです。時間の経過がそのまま柱にあらわれ、大きな時間の流れをこの空間でつくっているような感じがします。

そして環さんのお皿と、私がコーヒーを飲む用のカップを購入して、お茶を飲んで帰ってきました。外は桜が満開でしたが、肌寒かったのですが、あたたかい気持ちになって帰ってきたのでした。