先日、5月3日に鎌倉の平和推進実行委員会が主催した憲法記念日のつどい「バオバブの記憶」という本橋監督の作品を観に行ってきました。
千年生き続ける、バオバブの樹によりそいながら、樹を敬いながら生活するセネガルのトゥーバトゥール村の人たちのドキュメンタリー映画です。
近年では、中国資本が入り、近代化が進み、バオバブの樹も切り倒されてしまう状況が生まれているということでしたが、 そこにはバオバブの樹に対する信仰のような(宗教的にはイスラム教らしいのですがそれを超えるというかもっと身近な存在としての信仰のような)ものがあり、ある意味では、この樹が村の人達の心の支えでもある。
本橋監督は、「そこには暮らしがある」とおっしゃっていたことがとても印象に残ったわけです。
現代の私たちの暮らしにおいては、地域という概念すら消えつつあり、住宅地の住宅は個人の資産である為か周囲とは閉じている関係をつくりだしてしまっているのが現代の日常風景といって良い。資本主義の消費の対象が家族だけでなく、個人に対して「この商品を購入せよ」というメッセージを送り続けているが故に、家の中の家族内の関係性すら危うくなっているのではないか。
では、暮らしがあるとはどういうことなのだろうか。
確かに、その村の暮らしをそのまま私たちの生活として真似る、変えるというのには無理がある気もする。
しかしながら、「そこには暮らしがある」という場合、明らかに私たちの現代はどこか、非人間的な時間を過ごし、過ごしというよりは時間が慌てて過ぎてゆくように生活しているのではないか。暮らしがあるということは、大きな時間枠(人生)でとらえた時に、日々の生活の中に詩のようなものがあり、人生を愛おしく丁寧に暮らしているということが「そこに暮らしがある」というのではないかと漠然と考えたのでした。
そして、建築もまた、そのような大きな時間の流れの中で、人間の中に詩がある生活の中で、共に在りたいと思ったのでした。