2022年11月7日月曜日

台風15号がもたらしたこと〜これからの社会を考える。

 2022年9月23日の未明から24日の朝にかけて、静岡県にもたらした台風15号による、水害はとても大きく、土砂災害、河川の氾濫による床上浸水など、公共の道路が壊れただけではなく、人が住む住宅にも大きな被害がありました。

メディアでは、清水区における断水問題が主にとりあげられましたが、全国規模のニュースのレベルにおいては死者が少なかったこともあり、あまり報道されませんでした。

また、私たちが住む静岡市においても、12時間の停電程度で済んだ地域と水害による床上浸水等被害を受けた地域においては、災害に対する感覚、温度差があり、すぐに日常を回復できた地域では次の日から普通に暮らすことができていた地域がある一方で、水害による使えなくなった家財の片付け、畳の廃棄、泥の掻きだしなど、一ヶ月以上経った現在においても日常を回復できていない方々がとても多いという現状です。

私が建築士であるということもあり、住宅が水害を受けた際にどのように対処すべきかについての資料がメールにて送られてきたので、途方にくれている方もいらっしゃるのではないかと思い、instagramにて対処法についてご協力できる旨をお伝えしたところ、相談があり、床上浸水があった地区に、新建築家技術者集団静岡支部のメンバーとともに訪れました。

今回は、個別具体的な案件でどのように対応できたかということではなく、この台風15号によって私が感じた地域のあり方や人々の関係性などについて記してみようと思います。

【高齢者世帯や高齢者の独居】

私が訪れた地域では、高度成長期に宅地開発された所謂、ニュータウンでした。多摩ニュータウンなどでも言われているとおり住民の高齢化が進んでいて、且つ市街化調整区域という都市化を抑制している地域であるため、なおさらです。

避難するタイミングの判断が難しかったこと。今まで、携帯に災害避難警報が入っても何もなかったのですが今回は違った。私が訪れた家は、たまたま娘さんが帰省されていて、なんとか近くの公共施設に逃げられたという状況でしたが、平屋建ての家では、キッチンカウンターにのぼって一晩を過ごしたかたもいらした。今回は、床上30cm〜50cm程度だったので生命にかかわるとまでではなかったが、さらに増水していただどうだろうか?

 また、被災後の罹災証明の取り方など行政サービスへのアクセスについても、インターネットで情報を得るということが主流となっている現在、高齢者にとっては情報を得られないという状況が多かったと思います。2週間経っても、罹災証明を出していないという高齢者世帯の方と会うこともありました。地域社会、自治会が機能している地域では、自治会長さんや組長さんが一戸一戸を訪問してサポートしていましたが、機能していない地域では、ほぼ放置状態といった状況でした。

高齢者世帯については、サポートをするシステムづくりが必要であると痛切に感じました。

【地域社会のありかた】 

上にも書きましたが、今回の災害では、地域社会、自治会、町内会が機能している地域といない地域では、住民のケアをする体制に大きな差がでてきたということです。

行政主導でなんでも相談会が開催されていますが、床上浸水で自動車も壊れてしまった地域の高齢者が、市街地にある役所に訪れることはなかなか困難な状況です。

また、自治体で罹災証明のとり方や住宅の応急修理の申請方法などの大切な情報を回覧板で各住戸に回したとしても、説明なしでは読み取ることが困難だったと想像します。

そのような状況下で、地域社会、自治会が機能している地域では、 私たちのような建築士を呼んでそこに自治会長さんが立ち会ったり、どんな情報を流せばよいかと熱心に聞いたりしてくださる方の地域では、地域住民を集めて、住宅相談会を集会場で開いたりしたという話しを聞きました。

一方、機能していない地域では、消毒剤を各住戸分を配布してもらうために自治会長さんに渡したとは聞くものの、配布されていない、挙句には先ほどの罹災証明って何?という高齢者世帯がでてきてしまうということになってしまっているのではないかと想像します。

高齢化が進み、高齢者世帯、独居が進む現代、自助だけでは、とてもではないがやっていけないということを今回の災害で、明らかになったのではないと思います。共助がこれから人々の暮らしを支えるポイントになってくるのではないかと思いました。

公助は、もちろんとても必要なことですが、現在にいたる自公の政府には、そのような気はなさそうです。

 

【災害時、災害後の援助活動について】

ある自治会長さんが言っていたのは、9月23日〜24日の台風通過で、川が氾濫し、まず一番はやく駆けつけてくれたのは、ピースボートさんだったいうことでした。若い人たちが土嚢を積んでくれるのでとても助かったと。

現在も、社会福祉協議会さんがまとめ役となり、様々な県の社会福祉協議会の方やNPOさんが活動してくれています。

特に注目しているのが、技術系NPO「コミサポひろしま」さん。彼らの活動は、水害を受けた家屋の床板を外し、泥を掻き出し、浸水した部分の壁を切り、湿気を帯びた断熱材を切り出し、消毒し乾燥させ、家を今後も健全に保つための応急処置をしてくれています。11月7日の現在もレポートがあがってきます。

社会福祉協議会さんをはじめ、全国の色々な方々の活動のお陰で復旧がなされつつあるという現状をまずは知っていただきたいと思います。

今後、地球温暖化にともない、例外とされてきた災害の常態化も予測されます。円安物価高で市民生活は厳しくなり、さらなる大災害がやってきた時にはどのようなことになるのか、想像するだけでゾッとしますが、そうならない為にこれからの市民社会、地域社会、国のあり方をどのようにしていったら、市民が幸せに暮らせることができるのか、そちらのベクトルで想像し、創造してゆかなくてはならないと考えています。

床上浸水の状況
(↑床上35cmあたりまで水がきた痕跡が残っています。)
コミサポひろしまさんのお手本のような処置
(↑コミサポひろしまさんによるお手本のような床下の処置)


 


 

 



 

2022年9月25日日曜日

地域に住まうことについて

◯はじめに

私、本間は、静岡市の羽鳥にて生まれ育ちました。 しかしながら、幼稚園、小学校、中学校と市街地にある学校に通っていたので、地域の行事であるとか、地域活動というものとは縁遠かったと思います。 昭和の頃は、町内で盆踊りなどがありましたが、現在ではみかけることもなくなりました。 そのような少年時代でも、風の強い日に、家の東側に壁のように在る千代山の木々がいっせいに大きく揺れ、それとともに葉擦れの音がなる光景がいわば 原風景のように刻まれた感覚をもちつづけていました。
(↑『羽鳥の家』からみた千代山)

◯建穂寺が建穂・服織地区のはじまり?

『羽鳥の家』を設計したのが2004〜2005年にかけてです。その頃は、横浜に住んでいて 静岡は帰省するための故郷であると思っていました。 2000年ころだったか、今はなき幻のお寺と言われている建穂寺の観音堂跡からみた風景をみて建穂、羽鳥地区の成り立ちのはじまりをみたような衝撃を受けました。 この場所の力、エネルギー(いまでいうところのパワースポット的な)を感じました。
(↑建穂寺観音堂跡地から木枯の森をみる)

『羽鳥の家』は、この南北を基軸としたヴィスタをよみとり建築空間に反映させることとしました。 建穂寺は、白鳳時代に建立されたと言われ、その頃、渡来人である秦氏が服織地区に入植したとのことなので、この地域もまた千年単位で生きられた地域であると言えるのでは ないかと思っています。千年村プロジェクトというものがありますが、この地域もひょっとしたら、千年村というにふさわしいかもしれませんね。(しっかりと調査しないとですが…)

◯先行デザインを受継いでいる建穂・服織地区、或いは歴史の現在
(上:瑞祥山建穂寺之図 下:現在のマップ) 

かつての建穂寺境内の図があります。そして、その当時の建物の配置(伽藍)も観音堂跡から木枯の森を貫く軸線に沿って、配置されていることがわかると思います。 そして現在。かつての寺院の配置が基盤となって、延長するかのように建穂・服織地区の町割が構成されていることがわかります。この場所の地勢が観音堂〜木枯の森軸が現在にも生きられているのです。 もちろん、駿府城があり、城下町としての呉服町が構成されていて現在に至る例はありますが、白鳳時代、いわゆる歴史区分でいえば古代に属する古の時代からの名残がこの地域にあるということは、この場所で生きる人たちの精神的な拠り所のひとつになり得るのではないかと思っています。 今回は、このあたりで。

2022年8月14日日曜日

『生きられた家』

『生きられた家』多木浩二著 初版 1976年 

田畑書店 多木さんは私が学生の頃は、すでに建築の批評を活発にされていたように思います。 そのような90年代を過ごしていたのですが、建築論ではないとご本人が言っていたにもかかわらず建築界に影響をあたえていた 『生きられた家』という本は、すでに絶版で手に入らない、現在のようにネットが普及していない時代だったので、入手困難な 本になっていました。 

その後、青土社から改定された『生きられた家』が出版され、はじめて手にとったのがいつだったか。。 さらに岩波現代文庫からもさらなる改定版が出版されました。

 版を重ねる度に、手を加えたり削ったりしながら『生きられた家』という本自体が増改築をくりかえし、まさに「人が生きる家」の ようにメンテナンスされつづけたのですが、2011年、東日本大震災の年の4月にお亡くなりになり、残された『生きられた家』のテクスト は、引き継がれ2019年に再び青土社から『新版 生きられた家』が刊行されています。

 

 私は、このテクストの副題にある「経験と象徴」という言葉についても色々と思いをめぐらせました。 

 「家にはまたわれわれを超えた力が作用している。ひとつは家の象徴性だ。それはわれわれをいきなり太古や生命の根源に結びつけようとする。しかしもう一方で、家は人間の社会性そのもののなかに成立してきたものである。われわれが自覚していようといまいと、われわれを拘束する宇宙にもなる…」初版P12

「もしも家がなかったらば、人間は錯乱した存在となるだろう。天の雷雨にも、生の雷雨にもめげず、家は人間をささえまもる。家は肉体とたましい なのである。」初版P19 

 

象徴とは、私の解釈では、今現在という体験だけではなく、人が大昔から感じているような時を超えたもの、そのもとで人が想像をはせることができ、人と人とを緩やかに繋ぐようなものなのだと考えています。

経験については、ヴァルター・ベンヤミンが『経験と貧困』というテクストを残しているのですが、家とはそのような経験を紡いでいく、継承していく器であったものが、近代になり家のありようも変わりわたしたちは、親、祖父母世代からの経験を受け継ぐという契機もなくしている時代に生きているのではないでしょうか。経験の枯渇は、現在しか視ることができず、現在はまた過去の蓄積の上になりたっていること(歴史の現在)にたいする認識をなくしてしまうのではないかと思います。


とはいえ、時代は移ろっていきます。時代の要請とともに変化するべきことも多々あるでしょう。特に地球温暖化による脱炭素社会を目指すということは喫緊の課題でもあります。断熱性能を上げる、エネルギーのかからない家をつくることは時代の要請です。

 

そのなかにあって、人がいきいきと生きられる(生きられる世界とは、現象学の用語でもあるわけですが) 家を創ることがわたしたち設計者に対して問われていることなのではないかと思うのです。

2021年2月1日月曜日

Villa Malaparteについて

 私が建築の学生だった頃、大学の授業にでては、空いている時間で映画を観にいくというような生活をしていて、建築と映画の関係性について興味を抱くようになりました。

1990年代はじめは、いわゆるミニシアターが都内にあって、暇さえあれば足を運んでいました。特にフランス映画、ヌーヴェル・ヴァーグの監督が好きでした。とりわけ、ジャン=リュック・ゴダールの映画は、レイトショーでみてました。

建築と映画という観点でみると、ゴダールの比較的初期の作品『軽蔑』は、とても建築的だと言ってよいでしょう。ミッシェル・ピコリとブリジッド・バルドーのふたりの演技も素敵です。


前半の舞台は、ローマ。最初のシーンは、映画の工場とも言われたチネチッタが登場してきます。フリッツ・ラングというドイツの映画監督(『メトロポリス』という近未来映画を撮った監督ですが、その未来像は、現在もひとつのモデルとして有効です)も登場します。

アパートといっても日本ではマンションと言ったほうがよいのかもしれませんね。その住いでは室と室に行き来するシーンが多く、カメラの視線は壁と壁の縦ラインが強調されます。

 そして後半、舞台はローマからイタリアの南にあるカプリ島にうつります。そこで登場するのが、クルッツォ・マラパルテが自らも建築に携わったといわれている『マラパルテ邸』が登場します。前半のローマとはうってかわり、カメラの視線は水平が強調されることになります。このマラパルテ邸は、まさにゴダールが発見したと言われており、当初、イタリア合理主義の建築家、アダルベルト・リベラが設計したということですが、リベラの設計案は叩き台にすぎず、マラパルテが主導し地元の大工のアドルフォ・アミトラーノと協働でつくられたと言われています。


マラパルテ邸は、マラパルテ自身が「Casa come me(私のような家)」と語ったように、流刑にあった際の牢屋のイメージのような個室があったりします。また、マラパルテのいきざま、ファシストとの親交から断絶、コミュニズム、など思想的な振れ幅を考えると、まさに超現実的(シュールレアリズム的)な感覚が、この建築に鏤められているように感じます。

 下の映像は、サンローランの2018年の春のキャンペーンにて、かつてスーパーモデルとして世間に知られたケイト・モスがマラパルテ邸を舞台に撮られています。昨今のジェンダー問題にも通じる映像は、まさにマラパルテらしいような気がしてなりません。そして、どこか、時代に左右されない価値がこの住宅に宿っているのではないかと思うのです。 

先日、マラパルテが記した『クーデターの技術』という邦訳の本を購入しました。ミャンマーで軍部がクーデターを起こしたというニュースが流れていますが、彼の思想に触れて何を感じるのか楽しみです。そこから、この住宅のヒントがあるのでしょうか。

 

結びに、ゴダールの『軽蔑』では、奇しくもフリッツ・ラングがホメロスの『オデッセイア』の映画をこのマラパルテ邸の屋上で撮るという設定です。故郷のイタケーになかなかたどり着かない、 オデッセウス。「ノスタルジー」に支配されたこの物語と故郷喪失の現代人との共通項もまた繋がっているのかもしれませんね。

今は、この『ノスタルジー』の本を読み終えようと思っています。

(スマホでこのBlogを読むとYouTubeの映像が表示されませんでしたので、二箇所、リンクを貼りましたのでご確認ください。)

 

2020年9月26日土曜日

野掛け 椿茶屋 へ

         

 

先日、静岡の藤枝市は朝比奈川の支流近くにある「野掛け椿茶屋」に久しぶりに行きました。川の堤近くのピクニックスタイルのカフェだけあって、吹く風の心地よいこと!


すこし干してからラタトゥイユにするそうです!美味しくないはずがない。


9月半ばとはいえ、暑かったので、梅ミルクのかき氷をご馳走になりました。これが絶品!オーナーご夫婦のお人柄と里山の自然に包まれていると、ほんとうに豊かなこととはこういうことだ…と心身に染み入ります。これからコスモスの季節が始まるそうですよ。営業時間をおたしかめのうえ、みなさまもぜひ行ってみてくださいね〜!           
(み)


2018年11月29日木曜日

家びらきライブ VOL.1

10月28日(日)の昼下がり、谷川賢作さんのピアノと宮野裕司さんのサックスが羽鳥の住宅街に響き渡りました。会場はわたしたちの住居兼事務所の本間義章建築設計事務所。当日は、雲ひとつない晴天のもと、友人たち、ご近所さんを中心に、大人26名、子ども12名が集まってくれました。ありがとうございました。予想を上回る子どもの数に、少々驚いた様子の賢作さんでしたが、そこはさすがのご対応。皆が楽しめる曲目とお話で会場を巻き込んでいかれました。子どもたちも一流の音楽家の音色にぐっと引き込まれ、なかには聴きながらお昼寝タイムに入るお子さまも笑!贅沢な、ゆたかな時間が流れました。






4年前に静岡の羽鳥の家に戻ってから、ずっとやりたいと思っていた家びらき。こんなに贅沢なライブができたのは、静岡市出身の山本起也監督とのご縁があったから。山本監督作品のツヒノスミカ(2006年)は「ばあちゃんの家の終焉を愛おしむように見つめた、ひと夏の小さなレクイエム」的作品なのですが、その「ばあちゃんの家」が偶然にもご近所の羽鳥であったということから、いつかここで上映会を開きたいと監督に申し出ていたことをなんと監督が覚えていてくださり、今回の企画に至ったのでした。今回は上映会ではなく、ライブとなりましたが、近いうちに上映会企画もしますので、そのときはぜひ皆さんいらしてくださいね。
そうそう、その山本監督とのご縁をくださったのは、静岡大学 アートマネジメント人材育成のためのワークショップ100です。素晴らしい取り組み。いただいたものを少しずつでも地域にかえしてゆきます。


映像はそのツヒノスミカの一部。この美しい曲が家に響いたとき、家が喜んでいるような気がしました。

2018年6月6日水曜日

1年!!!

みなさん、こんにちは。
お久しぶりです。いや、お久しぶりすぎる…。
前回のブログアップから気づけば1年経っていましたよ…。
恐ろしい…。

洞慶院さんの東司(とうす=お手洗い)が完成しました。

みんなに手伝ってもらって、外壁塗ったり、内壁塗ったり。

みなさまのご協力により、晴れて完成。




ここなら住める、こんな小屋がほしい、と嬉しいお声もいただき笑。
トイレの神様 烏蒭沙摩明王が祀られているお寺にふさわしい快適なトイレが完成したと自負しております。みなさま、静岡にお越しの際はぜひお立ち寄りください。

http://www.tokeiin.jp/