2012年9月14日金曜日

『生きられた家』から『生きている建築へ』

私にとって、学生時代から30代までとても影響を受けた方のひとりに多木浩二先生がいました。先生の著書は、どれも重要なだと思いますし学生の頃に読んだ『戦争論』で戦争というものの非人間性を指摘し、ひとたび戦争が始まってしまったら、人間が人間でなくなることや砲弾の先に何が起こるのか想像力を失ってしまう、そのような状況においても、詩的想像力の必要性(スーダン・ソンタグがサラエボでベケットの演劇「ゴドーを待ちながら」を上演したことのエピソード)に共感したことを思い出します。
そして建築を学ぶ者にとって、重要な一冊は『生きられた家』なのだと思います。
東日本大震災以後、特にこの『生きられた家』について考えさられる日々が続いているように思えます。現象学という方法で家にアプローチし、人々にとって建築とは何かという根源的な疑問とともに、家と人はどのように結びついているのか、そして人にとって家を経験することとはどういうことなのかなどについて書かれている本であると思います。

以前に、この本の重要な箇所を抜き出したことがありますので、以下にそれを記述してみます。
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『生きられた家』のポイント
現象学というものの、「体験の秩序(invisibleな身体的な、物質されていないもの)」と「体験された対象の秩序(物質化されたもの)」のズレ、差異を利用しつかう。→ふたつの差異が意味をうみだす。
「建築を生きること」と「建築をつくること」の差異にどのような意味を与えていくか。

ハイデッガー『建てる、住まう、考える』
→かつては、住むことと建てることが同一化される構造があったことを見出すこと、この構造の意味を知ること。現代は、建てることと住まうことが不一致。その欠落(故郷喪失)こそ現代に生きているわれわれの本質であると考えることが必要だ。住むことの意味の喪失→存在の喪失。p13

巣と家
アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』
→巣と家は、プログラムが違う。動物のプログラムは遺伝的要素であって、人間のプログラムは遺伝ではなく学習。
人間が知的であることは人間が言葉を持っているということ。考えることは言葉なしにはできず、造形的に考えるとは隠れた言語≒象徴システムによって考えつくる。
「人間の統一性と人間的出来事とを表記法一般のたんなる可能性によって記述することはもはやしない。むしろ生命の歴史における一段階あるいは一分節として文字(グラム)の歴史として記述する」
われわれが目にする家もまた人間のプログラムのなかで形成されてきたものの痕跡であれば、それはふつうの言語とはちがって空間化され多元化された思考を結んだり編みかえたりする文字以前の文字(プロ・グラム)のようにあらわれているといえるだろう。p26

空間図式
人間の生を展開するための形式としての空間。われわれが生きていくための空間の秩序。
フーコーのパノプティコン(一望監視システム)やペスト患者の隔離(社会空間の分割)
箱庭療法 無意識にすみつく空間図式 「心的な構造が空間化された情景、たとえばある種の空間分割、象徴の局在化、秩序化や無秩序化、象徴を用いた分割線をのりこえ、トリックスターによる変容の予告などの劇的効果で表象されることは、人びとが自分の世界をありあわせの象徴を介して空間化し、空間によって自己の展開を劇的に構成する能力を前提にしているからである。」
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』→ボロロの集落の平面はほぼ円型をなし、中央に男の小屋があった。この周囲は社会組織によって分割されていた。かれの報告によると、ある集落でサレジオ会の修道士がかれらを二列にならんだ小屋に住まわせたところ、つまり空間を変更させたところ、かれらの社会組織や習慣は破壊してしまった。
スペインの農村の地下住居。外形のない建築。点状の住宅が接合枝によって連結され、住いが循環してゆく。
かつて、コスモロジー(宇宙論的図式)が家を支配し、集落を支配していた。
現在の我々の中にコスモロジーがあるかどうかは疑わしい→ひょっとしたら奥底に沈殿しているかもしれない。引き出すことはできないだろうか?

象徴
建築の象徴的経験とは、人びとを建築それ自体の理論へ回送しないで、建築が示している「世界」へ人びとを開くのである。象徴が関心をそそるもうひとつの局面は、その挑発的な性格である。

原基的シンボリズム…✛◯□△
抽象芸術 マレーヴィッチ、カンディンスキー 幾何学+近代が目指した普遍性ではあるが、キリスト教的図像でもある。
シンボリズムは精神的生活を提供している。例えば、木造ドーム(ドミカルシェイプ)は、持続する石におきかわったが、そのドームの形は精神的な作用でもあった。ドミカルシェイプが祖先伝来の「家」のかたちの凝縮とみなされ、またアナロジーによって「宇宙」をよびさます比喩的形象になった。アーキタイプ。
人間は建築からシェイプを引き出している。 domeは、domusとも関連。

「アーキタイプが円、正方形などでかく可視的図形に注意をひきつけるが、このような図形や表象を考えるまえに、それに先立って、ほとんど「触覚的」ないしは「共感覚的」といえる空間のなかで、われわれの想像力や認識が活動しはじめていると思えるからである。建築をまだ視覚的にはかたちを成さない空間図式として働いている状態と対応させてみれば、象徴の本質としての想像力と文化の記号的関係の構成する表面とは、この記号が動的な関係としてとらえられる限り必ずしも切りはなすことができないように見える。」p169

社会、政治、企業がつくるコード、イメージ。明治時代の小学校、兵営の建物→教育、駐屯の機能に並行して人びとが統合される国家を暗黙にうけとらせる記号として機能。メディアとしての建物→スーパー

ギーディオンによるモニュメント解釈。建築哲学の背景には、記号の合理的な認識があり、意味表現と意味内容の整合が前提。本質主義。機能主義、合理主義。(マクロには技術社会)
われわれが生きている世界は、むしろ、技術的環境に枠づけされながら、もっと複雑なコードで織られた別次元なのである。

むしろ政治的な権力が、多様化しほとんど風俗化したものを介して機能していることは、社会をこれまでの政治学と別の位相から取上げなおすべきことを暗示している。生きられた家も、その政治学を必要としている。

時間と記憶
個人によって生きられる時間と、人類学的な時間。

人間はその時間と空間のさまざまな多様性をうみだし、そこに神話や性的関係、夢ばかりでなく、社会制度や政治学をも織り込み、さらにそれを商品の法則に従わせることもやってのけるのである。こうした記号論的な虚構が、わたしたちが現実としていきてきたものであった。つまり経験の次元をとりだすことは、現象学を象徴的な人類学への開口とみなすことにほかならなかった。p221
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かつて家は、人類学的な時間と個人によって生きられる時間が重なり合わさるような場であったのですが、現代は人類学的な時間は、グローバル化する時間に変容し、個人が生きられる時間というものも、スマートフォンでTwitterやFBを操る時間を生きられとするのであるならば、より細分化しているのかもしれません。
さらに、コスモロジー(秩序)は失われて、個人の欲望やお金が基準となった家が建ち、空間図式は産業化された住宅業界の形式に還元されてしまっている。家はすでにマーケティング化された市場の一部になりさがっているように思います。
そのような時代に、地震が起こりました。。
そして、地震が起きた後、4月に多木先生はお亡くなりに…。多木先生がこの3.11を契機に露わになった世界をみてもきっと動揺せずに、ベンヤミンの『歴史の概念について』にでてくる、「歴史の天使」のような眼差しで世界を見つめ続けていることだと思います。

第13回のベネツィア・ビエンナーレ建築展にて伊東豊雄さんのチームが「みんなの家」を建てることを日本館においてプレゼンテーションし、金獅子賞を獲得しました。
先日、9月11日に六本木AXISギャラリーにて、伊東豊雄さんと多木先生の息子さんの陽介さんの『生きている建築へ』というタイトルのトークイベントが開催されました。
伊東さんは、そこで建築家という衣を脱ぎ去った時に何ができるか、人と人とが繋がるために何ができるかなど、今までとは違う姿勢で建築にむかっているという話をされ、それを受け、陽介さんが「透明」という解釈をしたように思います。建築家はもっと謙虚であれという言葉も印象的でした。
対談の最後に、伊東さんは、これからの時間をデザインするような建築、(人間や他の生命と同様)建築も「生きているんだ」という時間的プロセスを意識することが大切なのではないか?と問題提起されました。

『生きられた家』は、現象学的なアプローチで、現在を過去の根源に向かって記述した本です。それらの歴史を踏まえながら家や建築を未来に向かって写象してみること。私たちの想像力が、今問われているような気がしてなりません。